サイエンスフィクションに関する四つのエッセー
ジョン・スコルジー
はじめに
こんにちは。ジョン・スコルジーです。今年のヒューゴー賞最優秀ファンライターにノミネートされ、たいへん喜んでいます。今年のワールドコンは横浜で開催されるということもあり、日本の皆様にもぜひわたしの作品を読んでいただきたいと考えました。そこで、サイエンスフィクションに関する四つのエッセーを翻訳してもらいました。2006年に書いたものです。楽しんでいただれば幸いです(翻訳を引き受けてくださった黒沢由美さんに感謝します)。
少しだけ自己紹介します。わたしはサイエンスフィクションの作家で、著書『老人と宇宙(そら)』(早川書房、原題Old
Man’s War)は2006年ヒューゴー賞長編小説部門にノミネートされ、2006年キャンベル賞新人賞を受賞しました。オンラインでも執筆しており、わたしのウェブサイトscalzi.comに公開しています。ヒューゴー賞最優秀ファンライターにノミネートされたのも、このウェブサイトで公開したエッセーによるものです。
今回のノミネートはたいへん光栄です。Nippon07にもぜひ出席したいと思っています。会場で皆様に会えますように。それまでお元気で。ではエッセーをどうぞ!
ジョン・スコルジー
〈スター・ウォーズ〉がエンタテイメントであるという嘘
Pyr Booksの編集者ルー・アンダースから、SFと“エンタテイメント”に関する問題提起へのコメントを求められた。ここでいう“エンタテイメント”とは、テレビや映画でしかSFを知らない大衆を振り向かせるほどSF小説は娯楽的(エンタテイニング)になり得るか、という意味での“エンタテイメント”である。この議論の発端は作家のクリスティン・キャスリン・ラッシュがAsimov'sサイトに掲載したエッセーで、SF小説は〈スター・ウォーズ〉をもっと見習うべきだとラッシュは書いている。ラッシュの中では〈スター・ウォーズ〉は古き良きエンタテイメントの見本であり、ほとんどのSF小説はその対極にあって、「特殊な用語だらけで、限られた人しか読まず」、「現実より醜い世界」と「人間であれ、エイリアンであれ何であれ、自分の仲間などどうでもいいという主人公」を描く「ディストピア小説」だという。
これにイアン・マクドナルドが反駁した。〈スター・ウォーズ〉以外のSF小説がエンタテイメントを放棄しているという見方を否定し(「(エンタテイメントは)文法や構文と同じく基本であって目的ではない。出発点だ」)、エンタテイメントがすべてだとか、〈スター・ウォーズ〉がその頂点だとかいう考えも非難した(「仮にわたしが目指し得る最高峰がそこまでだとしたら、そうしてわたしが読者の心をつかもうと望み、実現を夢見てきたものがすべてその尺度で測られてしまうとしたら、わたしに残された道徳的に矛盾のない行為は書くのをやめることだけだ」)。この後、ルー・アンダースがイアンの意見にコメントしている。
SF小説は自らを救うためにもっと娯楽に徹しなければならないか否かという問題をここで論じるつもりはない。これについては以前書いたことがあるし、いまはその問題に興味がない。ただ、わたし自身はエンタテイニングでかつ知的に洗練された本を書くことを目指しており、それは自分ならそういう本を読みたいと思うからだ、とだけ述べておく。今回わたしが論じたいのは、ラッシュ氏とマクドナルド氏の議論の大半が見当違いだということである。そもそもの前提が間違っているからで、その間違った前提とは、映画〈スター・ウォーズ〉がエンタテイメントである、というものである。
〈スター・ウォーズ〉はエンタテイメントではない。〈スター・ウォーズ〉は、ジョゼフ・キャンベルの肖像を前にしておこなうジョージ・ルーカスの自慰行為であり、ジョージ・ルーカスはそれを大勢の観客に観るよう仕向けたのである。
映画〈スター・ウォーズ〉に“大衆的”なところは一切ない。これは〈スター・ウォーズ〉全作品にいえることだが、エピソードⅠ、Ⅱ、Ⅲでは特にそれが顕著だ。どれも、自分の創作世界の内部体系に他の人々を受け入れようという気持ちのない人間の手で作られており、自分本位で狭量な作品である。作家主義の極致であるが、この連作の作家は自分の作品の観客を軽んじている――そうでなければ、少なくとも、他の人々が自分と同じビジョンを“持ち得る”かどうかという関心が自閉症的に欠如している。“エンタテイナー”という言葉には、作者や役者が観客を惹き込みたくて働きかける意味合いが含まれるが、ジョージ・ルーカスにはそういう気持ちがない。自分の宇宙から観客を締め出しはしないにしろ、観客が彼の宇宙に入ってこられるかどうかをまったく気にかけていないのである。映画〈スター・ウォーズ〉を“エンタテイメント”と呼ぶことは、エンタテイメントの意味を根本的に誤解していることになる。
だからといって、映画〈スター・ウォーズ〉が“エンタテイニング"でないということにはならない。エンタテイニングではあり得るだろう。ジョージ・ルーカス本人はストーリーテラーとしてはとんでもなくお粗末な資質しかもっていないが、少なくとも一般に通じる感性を持ち合わせている。あるいは映画〈スター・ウォーズ〉第一作制作当時は持ち合わせていた。〈スター・ウォーズ〉第一作は、30年代の冒険シリーズもの、40年代の戦争映画、50年代の黒澤映画、60年代の東洋神秘主義を寄せ集めた作品であり(このことはわたしの著書『Rough
Guide to Sci-Fi Movies』でも書いている)、それらをすべて映画という鍋に入れ、ジョゼフ・キャンベルの千の顔を持つ英雄のエキスから仕立てた水っぽいスープで煮立てたものだ。黒澤映画を除き、これらはどれも共通文化の素材であり、そのシチューをふるまった点ではルーカスの仕事はまともだった。〈スター・ウォーズ〉にとってもう一つ有利だったのは、その前に『猿の惑星』から始まり『2003年未来への旅』へとなだれ込む重たいディストピアSF映画の時代が10年近く続いていたことだ。そうした10年間の後では(頭を麻痺させる華々しい特殊効果もあいまって)、〈スター・ウォーズ〉は新風の到来と感じられた。
だが、その当時ですら、ルーカスは観客を楽しませることとは別のことを考えていた。ジョゼフ・キャンベルの伝記でルーカスは次のように書いている。
「『アメリカン・グラフィティ』の後、自分にとって大切なのは物事を測る尺度を打ち立てることであって、世界をあるがままに人々に示すことではないという結論に至った。……これに気付いたのと同じ頃……神話が現代ではうまく用いられていないことに思い当たった」
神話の興味深いところは、既に死滅した目的論的世界の残骸だということだ。何かを信じていた人々が皆死に絶え、物語だけが残されて初めて成立するのが神話である。神話を作り出すことは、死体愛好者的行為だ。ある文化を暗に抹殺した上でその死骸を弄ぶようなものである。それはある意味、神になるより心地よい。神々は自分たちが創造した宇宙の面倒を見なければならないが、神話を生み出す者は何が起こったかを語るだけでよいのだから。ルーカスが〈スター・ウォーズ〉を「遠い昔、はるかかなたの銀河系で……」という言葉で始めたとき、彼が観客に暗に伝えているのは、観客はこの物語の当事者ではなく、はるか昔に死んだ当事者たちの目を通して、既に起こった出来事を見せられるに過ぎないということなのである。
それがどうして問題なのか。ルーカスの目的は壮大な神話の構築であって、必ずしも連作映画の制作ではないから問題なのだ。〈スター・ウォーズ〉DVDの音声解説でルーカスが例のそっけない口調で話すのを聞けば、彼がシリーズ全体を通していかにすべてのつじつまを合わせようとしていたかということ――この連作映画全体で一つの神話を示そうとしていたことがわかるだろう。それはかまわない。ただ、神話を作り上げるというルーカスの本当の目的の前には、脚本や演技はもちろん映画そのものですら二次的なものに過ぎなかったということをこれは裏付けている。神話も娯楽として楽しめるものになり得る。実際、たとえ観客の参加を拒んだとしても、神話もエンタテイニングだからこそ生き残るのである。〈スター・ウォーズ〉シリーズもエンタテイメントとして機能し得たはずだ。だが実際には本質的にエンタテイメントになっていない。ルーカスにとって、映画がエンタテイメントとして成立しているかどうかは二の次であり、自分が作り出した神話にきちんと沿っているかという方が大事だったからである。
これは後半三作(エピソードⅠ、Ⅱ、Ⅲ)で一層歴然としている。この三作は、スカイウォーカー父子の神話を神聖化することのみを目的に作られている。神話の骨に肉付けすることで、その肉を土に帰し、骨を砕いて聖骨箱に納めるためだ。エンタテイメントとして作られていないのだから、あまりおもしろくないのも不思議ではない。インダストリアル・ライト&マジック社によるきらびやかな装飾を剥ぎ取ってみれば、後に残るのは、脇目もふらずにダース・ベイダー創造に向かう、カルヴァン主義者を思わせる行進だけだ。ルーカスはそれを目指すあまり、立ち止まってまともな脚本を書くことも、役者たち(名役者たちだが不可解なキャスティングだ)に台詞をおごそかに唱える以上の仕事をさせることもしなかった。ルーカスはそんなことを気にかけていられなかった。エンタテイメントの座は聖典の完成に取って代わられていたからだ。
大作〈スター・ウォーズ〉シリーズが完結してわかったのは、このシリーズのエンタテイメントとしての価値は、意図せずして得られた(ルーカスといえども寄せ集めの元にあった純粋なエンタテイメントの価値を抜き取ることはできなかった)、または特殊効果によって実現された、あるいは請負人たち、とりわけローレンス・カスダンとリイ・ブラケットの仕事のおかげだったということだ(この二人が担当した『帝国の逆襲』の脚本は、シリーズで唯一、分別のある脚本になっており、無用な台詞も少ない。カスダンとブラケットは明らかに、神話の提示に劣らず娯楽として楽しめることも目指しており、この二つが両立可能であることを立証している)。ルーカスが自分の映画が人にどう思われるか気にかけていないのは明白だ。どうして気にかける必要があるだろうか。ルーカスは自分が作りたい映画を作りたいように作っただけだ。彼のビジョン、彼の神話、彼の構造物は完成し、それを実現するのに使った手段を正当化する必要はない。
皮肉にも、わたしはそれに関してルーカスを責める気はない。ルーカスはルーカスだ。わたしが非難したいのは、〈スター・ウォーズ〉第一作の監督料を安くする代わりにルーカスに続編の権利と商品化権を与えた20世紀フォックスの間抜けな連中である。映画会社が管理したからといって〈スター・ウォーズ〉シリーズがもっとましなものになっていたかどうかはわからないが、少なくともどの作品もエンタテイニングにしようと努めただろう。映画会社は本音をいえば神話などどうとも思っていない。連中が気にするのは観客を呼べるかどうかだけだ。映画会社が管理していれば、『エピソードI』の脚本をちゃんと台詞の書ける者に頼まなくていいのか、とか、役者の演出をほかの者に任せたままプロデュースだけしていて大丈夫なのか、といったことを、ルーカスに言える者もきっといたはずだ。映画制作のそういった面をルーカスは必要悪程度にしか見なしていなかった。そう、ルーカスにはにっこり笑顔を浮かべて神話作りで遊ばせておいて、監督と脚本家に向かってこう言える者だっていたはずだ。「さあ、これを娯楽として楽しめるものにしてくれ、さもないとお前らのタマをシャチのシャムーに食わせるぞ」ああ、タイムマシンがあったら。
ここで読者はこう思うだろう。「映画〈スター・ウォーズ〉がエンタテイメントとして作られたのでないとしたら、どうしてこれほど多くの人が楽しんだのか?」もっともな疑問だ。結局のところ、このシリーズには興行成績2億ドルを下回ったものは一本もない(しかも1980年代のドルでだ)。わたしもエピソードⅣ、Ⅴ、Ⅵが十分楽しめるものだということは認める。この三本は斬新であり、ルーカスが聖なる神話を探求する一方で、介入した請負人たちはエンタテイメントを目指していたからだ。ただ、この頃でも『ジェダイの帰還』はよくなかった。エピソードⅠ、Ⅱ、Ⅲを心から楽しめたという人がいるだろうか。とりわけ『エピソードI』は気の抜けた、つまらない代物だ。映画館では、ジャージャーが登場した瞬間、観客の期待がシューとしぼむ音が聞こえただろう。『エピソードI』の最初の週末を経験しながらも多くの人がその後の続編も観に行ったのは、多くの人が日曜に教会に行くのと同じ理由だ。それは習慣であり、いつ立っていつ座るべきかわかっており、皆、牧師が今週の説教をどうしくじるか見たいのだ。『エピソードⅢ』を観終わったときのわたしの気持ちがわかるだろうか。安堵したのだ。これで〈スター・ウォーズ〉の全作品を観終わった。もう自由だ。そう感じたのはわたしだけではあるまい。
エピソードⅣ、Ⅴ、Ⅵがエンタテイニングだとしても、これらもエンタテイメントとして作られていないことに変わりはない。結局のところ、これらは目的を実現するための手段、ジョージ・ルーカスただ一人が目指した目的のための手段に過ぎなかった。ルーカス以外の人にとっては、これはエンタテイメントではないし、エンタテイメントだというのは間違いである。そして、だからこそ、〈スター・ウォーズ〉のようなエンタテイメントがもっと必要だというのは愚かなのである。一人の人間を喜ばせるためだけに作られたエンタテイメントがもっと必要だというのか? たとえば、わたしは自分が読みたいと思うような作品を書くが、ほかの人がどう思うか考えないというわけではない。ジョージ・ルーカスは膨大な数の人々に、彼らを楽しませているとまんまと信じ込ませた(逆にいえば、観客の方も、ルーカスが自分たちを楽しませてくれていると信じ込みたいばかりに、そうでないことを認めたがらない)。そんなものは一回でたくさんだ。
こういうテストはどうだろうか。『宇宙の七人』(原題Battle
Beyond the Stars)という映画を観てほしい。ロジャー・コーマン製作総指揮の1980年のB級映画で、明らかに〈スター・ウォーズ〉の流行に便乗している。〈スター・ウォーズ〉で寄せ集められているのとまさに同じものが寄せ集められており(黒澤明の名前からとった惑星アキールまで出てくる)、制作費200万ドルは1980年当時でも低予算だ。脚本はジョン・セイルズ(その後アカデミー賞脚本賞に二度ノミネートされている)、おもしろくて気が利いており、映画として一貫性をもっているのがかえって信じられないほどである。この映画を観て正直に答えてほしい。これは〈スター・ウォーズ〉エピソードⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅵよりエンタテイニングだといえないか。安っぽい特殊効果さえあまり気にしなければ、〈スター・ウォーズ〉の神話なんぞよりずっとおもしろいと認めるのではないだろうか。
その理由は簡単だ。この映画は観客を楽しませようとしているからである。コーマンもセイルズも、ありがたいことに、神話にはまるっきり関心がなかった。神話の要素は観客を楽しませるのに利用しただけだ。彼らにとって大切だったのは、観客を90分間楽しませること、そしてそれで稼いだ資金でまた次の映画が作れることだった。わたしは『宇宙の七人』のようなSF作品がもっと必要だと言っているわけではない(もっとひどい代物を想像することは確かにできるが)。わたしが言いたいのは、〈スター・ウォーズ〉シリーズをエンタテイメントだというなら、エンタテイメントとしては200万ドルのコーマンの映画にすらかなわないということだ。だから、〈スター・ウォーズ〉シリーズがエンタテイメントの傑作だという欺瞞はもうやめにしよう。
それよりも、そのものずばりこう呼んではどうか。ジョージ・ルーカスが自分を楽しませた記念碑。それはそれでいいことだ。ルーカスにとって、自分の好きなことができたのはよかっただろう。誰だって自分が喜ぶことをしたい。ただ公の場でやるからには、もう少しエンタテイニングにしてほしかったと思う。
カール・セーガンについて
11歳のとき、わたしにとって世界で一番かっこいいのはカール・セーガンだった。というのも彼がまさにわたしに向かって語りかけてきたからだ。1980年、11歳の少年だったわたしは、大人になったら天文学者になると決めていた――わたしは星が好きで、科学が好きで、おもちゃが好きだった。ちょうどそんなときにテレビでセーガンを見たのだ。赤いタートルネックとベージュのジャケットの似合う温厚そうな人物が、特殊効果とヴァンゲリスの音楽をバックに、過去の宇宙、現在の宇宙、将来に宇宙について視聴者に(とりわけわたしに)語っていた。
わたしはカール・セーガンに夢中になった。それは思春期前のオタクたち特有ののめりこみ方だったに違いなく、性的な要素は一切ないもののそれに似た目くるめくような強烈さがあった。カール・セーガンは、11歳のわたしがまさに将来こうなりたい、と思う人物だった。セーガンは、わたしにとって文化的英雄トップスリーの一人だ。あとの二人はジョン・レノンとヘンリー・ルイス・メンケンである。三大ヒーローとしては変なとり合わせだが、わたしだっていまだにいささか変人なのだからしかたない。ただ、その中でもカール・セーガンはジョンとヘンリーを抑えて一位だった。きっとタートルネックのせいだろう。
11歳当時、母親から今週の〈コスモス〉が観たかったらいい子でいなさい、といわれていたわたしが、それから四半世紀たったいまもカール・セーガンの熱烈な信奉者のままなのは、セーガンの功績はとてつもなく大きいと思うからだ。セーガンはその根気強さとユーモアで科学を世間に伝道し、一般家庭にまで届けた。テレビ番組〈コスモス〉はもちろんのこと、彼は〈ザ・トゥナイト・ショー〉にも何度も出演し、スターらしい優雅な語り口で宇宙で起こっていることを語った。彼は庶民にとっての科学者だった。それは身近なNASCARレース場でも見かけるという意味ではなく、NASCARレースを例に相対速度や宇宙移動を簡単に説明できる人だということだ。
それはとても重要なことである。わたしたちにもわかるように、かといって素人と見下しもせずに、科学をわたしたちの前に見せてくれることによって、わたしたちは科学を支持するようになり、科学のことを自分の理解を超えるものでも自分の信条と敵対するものでもないと理解するようになる。善意と根気とユーモアを持ち合わせ、科学に懐疑的だったり無知だったりする人々にも進んで語りかけ、科学は身近なものだということを示してくれる科学者であり伝道者である人が必要なのだ。カール・セーガンはそのやり方を心得ていた。それが並外れて上手かったのである。
セーガンはわたしに大きな影響を与えた。わたしは結局科学者にこそならなかったが(なりたくても数学の才能が足りなかった)、それなりに科学について書く仕事をしているし、天文学の本を書くという一つの人生目標も果たした。その本『The Rough Guide to the Universe』は現在第二版を準備中だ。わたしは科学について書き、表現するとき、カール・セーガンを手本にしている。宇宙で起こっていることの大半は、大半の人が理解できるように説明できる。必要なのは説明したいという情熱と適切な言葉だけだ。セーガンはその情熱と言葉の両方を備えていた。わたしもそうありたいと思う。それはわたし自身がカール・セーガンから学んだことだからでもある。
聖人視すべきでないことはわかっている。わたしの中のカール・セーガンは理想化されていて完全無欠だが、カール・セーガンも人間なのだから本当は欠点もあっただろう。わたしが知っているカール・セーガンは、限られた時間のテレビ映像と限られた数の著作を通したイメージに過ぎず、いずれもわたしにとって受け入れやすい人物像に塗り直されている。だからこそ、11歳のときとは違って、いまのわたしはカール・セーガンになりたいとは思わない。それどころか、彼のような人間になりたいとも思わない。だいたいわたしは彼がどんな人間なのか個人的には知らないのだから。
わたしにわかっているのは、彼の考え方が好きだということである。科学に対する彼の愛情が好きだ。人間性への信頼が好きだ。人間はその本質上、またその本質の充足のために、自分より偉大なものを探求するという考え方が好きだ。全宇宙に対する情熱を人々に伝え、みんなでその情熱を分かち合えると信じていたところが好きだ。これらすべてを彼が万人に与える中、わたしもまず11歳でそれを受け取り、いまも受け続けている。わたしはありがたくそれを受け取り、自分の中に取り込んだ。それらを上手に使いこなして、かつてわたし自身が分け与えられたように、他の人にも分け与えることができたらと思う。
無料で読めるが買ってほしい本
『The Sagan Diary』を書き終えたので、2週間ほど前に買っておいたピーター・ワッツの『Blindsight』を読んだ。ほかの人も書いているとおり、すばらしい作品だ。ハードSFの良さが満載で、来年の各種SF賞の候補作になるだろう。読み応えがあってガツンとくるSFを探しているなら、この本がお勧めだ。
ワッツは先日『Blindsight
』をクリエイティブコモンズ(CC)ライセンスでオンライン公開したので、本を買う前に読んでみることもできる。あるいは、買えない人にも読んでもらえるようにしたのかもしれないが、興味深いのは、ワッツがCC公開について「実験というよりは捨て鉢の行為」と言っていることだ。ワッツは自身のウェブサイトでその考えを説明しているが、かいつまんで言えばこういうことになる。ワッツによれば、同書の初版部数は少なく(3,700部)、ボーダーズやバーンズ・アンド・ノーブルのようなチェーン書店からの前注文もなく、専門書店でも見つかりにくくなっていて、出版元のTorでは増刷するかどうかもはっきりしていないという。CCオンライン版で公開すれば、少なくとも作品を手にする機会を読者に与え、読んでもらうことができる、とワッツは考えたのである。
ワッツは、この本の商業的救済にこれ以上何かできるとはあまり楽観していないようだし、CC版で公開することでそれをどうにかできるともあまり思っていないようだ。現段階では、彼はこの本を買ってもらうより読んでもらうことを優先したと思われる(もちろんワッツ本人は違うというかもしれない。わたしは彼が書いていることを自分なりに解釈しただけだ)。CCで読んだ人のせめて一部でも彼の本を実際に買ってくれることを望むが、ワッツがあまり期待していないのももっともに思える。CCライセンスなどの無償提供制度によるオンライン公開が著書の売上や著者の評判によい影響を与えた実例はたくさんあるが、それはあくまでもそういう例もあるということに過ぎず、中にはたまたま急成長中の著者だったからCC公開が成功に結び付いたといえるケースもあるだろう。
たとえば、チャールズ・ストロスは昨年『Accelerando』をCCライセンスでオンライン公開した。チャールズはこの作品の売れ行きはそれ以前の作品よりよかったというだろうし、ヒューゴー賞にもノミネートされたほどだから本当だろう。果たしてこれは、CC公開が新しい読者と購入者を生み出したからなのだろうか。それとも、『Accelerando』の発表までにチャールズ自身がすばらしいSF作家になっていたからだろうか。何しろ連続してヒューゴー賞のベスト長篇部門にノミネートされ、すばらしい書評を寄せられ、マスコミにもしばしば登場し、オンラインでも健全かつ活発な活動を示しているのだから。わたし自身は、作品のオンライン公開は同書の売上に何の悪影響もなかったと思うが、ではそれが売上にどれほど貢献したかというとわからないと思う。わずかかもしれないし、相当かもしれないし、皆無かもしれない。データには雑多な要素が混ざっていて具体的な立証は難しい。
もっと広範に見れば、CCのような方法でオンライン公開されている作品の数は、有効なデータがとれるほど多くない。したがって、データに不純要素が多いだけでなく、データ自体の量も足りない。それに当然ながら、作品ごとに条件は異なる。ワッツが『Blindsight
』を公開した状況とチャールズが『Accelerando』を公開した状況は違うし、コリー・ドクトロウが『マジック・キングダムでたそがれて』を公開した状況とも、わたしが『Agent
to the Stars』を公開した状況(CCライセンスで公開したのではないがオンラインで無償ダウンロードできる)とも違う。CCライセンスによる作品公開は、たとえば、ワッツが読者を増やす上では効果をあげたかもしれないが、そうしたオンラインの読者のかなりの割合が購買者に転じない限り、実際問題としてはほとんど意味がなかったともいえる。結局のところ、出版は売上次第で動く。ワッツの本が売れなければその後の出版は一層困難になるだろうし、そうなれば、買わずに作品を読んだ新しい読者たちがピーター・ワッツの次の作品を読む機会も少なくなってしまう。
ずいぶん遠回りをしたが、ここでわたしが論じたいのは、これまで議論されてこなかった差し迫った問題、読者が著者に対してどれほど責任を負うかという問題である。たとえば、わたしが『Blindsight』をダウンロードし、これを読んで気に入ったとする。その場合、わたしにはワッツの本を買う責任があるだろうか。ある見地からいえば、その責任は一切ない――読者がどんな形であれ代価を支払う義務のない方法で、ワッツは作品を公開したのである。読者は「ありがとう」と言う必要さえない。
その一方で、いま現在このオフラインの世界では、作家は売上に応じて報酬を得ている。作家が受け取る報酬の一部は本の売上成績に依存する。本が売れていなければ、作家は補助的な収入(講演料、出演料など)を得ることもできない。わたしが読者としてワッツの作品を楽しんだとして、感謝を表す最良の手段――そしてもっと利己的な動機として今後さらに彼の作品を読めるようにする最良の手段――は、その本を買うことなのである。だからこそわたしも、間接的な恩恵を受ける同業者としての立場は抜きにしても、コリーの全作品を買い、『Accelerando』を買い、『Blindsight』を既に買っていたのでなければ、きっと注文していただろう。わたし自身は、そうすることが著者に対する責任だと考えており、そうすることで作品を直接的かつ真摯に支えるべきだと思っている。これを読んだ人に同じ考え方を強要することはできないが、同じように考えてくれるとうれしい。
さて、当然ながら、読者が自ら書店に足を運んで本を買うことが適わない状況もあるだろう。金銭的に余裕がなかったり、外国に住んでいたり、SFなんて悪魔の読み物だと決め付ける親から禁じられていたり。それなら、やむをえない。ただ、わたし自身にはそういった制約は何もないし、CC好きのインターネット住人の大部分も同じではないではないだろうか。そういう人たちは、CC公開されている小説が気に入ったら、実際の本を買うことでそれを表明してほしい。自分がいらないなら、友人にプレゼントしてもいいし、地元の図書館に寄付してもいい。そうすれば、著者の評判も広まるのだ。
言いたいことをまとめよう。まず、『Blindsight』はすばらしい作品なのでぜひ読んでほしい。CC公開版で読んだ場合は、読み終えて「うわあ、ものの見方が広がった気がする。『Blindsight』のパワーのおかげだ」と思ったなら、近くの書店へ出かけて本を買うか(あるいは注文するか)、オンラインで買ってほしい。もちろん、そうする義務はない。でもそうしてほしい。この本が気に入ったなら、Tor
Booksに増刷を即断させるのに貢献してほしい。
『Cover Story』と表紙画
画家で現在ヒューゴー賞にノミネートされているジョン・ピカシオから、『Cover Story: The
Art of John Picacio』が送られてきた。5月末に出版される予定の本だ。美しい装丁の本で、SF、ファンタジー、その他のジャンルから彼の作品が集められている。ピカシオの作品には一目で彼の作品とわかる作風があり、写真のように写実的な人物と鮮やかな色使いが特徴だ(どちらの特徴もこの本の表紙によく出ている)。わたしは個人的に彼の作風が好きなので、一冊の本としてまとめて鑑賞できるようになったのはうれしいことだ。
表紙画とその制作過程についてのピカシオの簡単な説明もよかった。作家は表紙画制作に関して知識もないし、あまり口を出さないことになっているので、表紙画アーチストの考えを少しでも知ることができるのはよい。ピカシオの制作信条の一つに「本は神である」という言葉があったのはありがたかった。本の内容とまったく関係のない表紙画を多々見てきたので、本から着想を得ている表紙画アーチストがいるとわかるのはうれしいものだ。
わたしがピカシオの作品が好きだというのには、ピカシオ本人より、ピカシオに表紙画を頼む人々の立場を思う部分が多分にあり、ピカシオに依頼するということが、SFとファンタジーの表紙画をあるべき姿にしようという意欲と願望の現れであるところにある。大局的に見れば、これは内容を適切に表現した表紙画を生むことにつながり、具体的には、たとえば、まともな社会人がその本を手に町へ出ても、自分が読んでいる本の表紙を隠したくなったりしないということだ。ピカシオの作品のような表紙画は、その本のSF/ファンタジー的要素を隠さずに表現しながら、SF/ファンタジー読者以外の人々をも排除せずに受け入れる(そして魅了する)表現になっている。それは賢明なやり方だ。
これは必ずしも新しい流れではない。間違っているかもしれないが、デイブ・マッキーンによるコミック『サンドマン』の表紙画にまでさかのぼれるのではないか。当時の他のコミックの表紙画とはまったく違い、コラージュ合成を用いた彼の作品は、中身のコミック作品自体の主題の成熟度に合致していた。そこからこの潮流はダーク・ファンタジーの分野に流れ込み(チャイナ・ミエヴィルの表紙が好例だ)、それがいまSFにもいい意味でやってきているようだ。いままでと違うのは、といってもわたしの個人的な感触に過ぎないが、ピカシオのような表紙画が多くなったこと、それも例外的なものとしてでなく、標準(あるいは少なくとも強力な指針)になりつつあることである。
これはいいことに違いない。悲しいかな、本は表紙で判断される。だが、ピカシオの作品のような表紙画なら、表紙の中身はまじめな大人がまじめに読める作品だという、SF/ファンタジー読者ならとっくに知っていることを示唆してくれる。これはSF/ファンタジー界にとっても、SF/ファンタジー作家にとっても、潜在的読者にとってもいいことである。もちろん、優れた表紙画がすべての問題を解決するわけではないが、問題を一つは減らすことになる。それはよい出発点になるだろう。
***
数日前にジョン・ピカシオの表紙画について書き、自分がSF表紙画の歴史に暗いことを露呈してしまったところ、ピカシオから電子メールが届き、リチャード・パワーズの作品を見てみることを勧められた。パワーズは、主に50年代から60年代にSFの表紙を多数手がけたアーチストだ。eBayで探したらわりとすぐに『The
Art of Richard Powers』が見つかり、購入したらやはりわりとすぐに手元に届いた。
パワーズの作品を見て、ああこの絵か、とすぐにわかった。ただ、わたしがSFを本格的に読み始めた80年代初め頃にはパワーズの最盛期はおおかた終わっていたと言わざるを得ず、その頃になると、彼の作品、たとえばロバート・ハインライン作『フライデイ』の表紙画などは、自己嫌悪の美学とでもいうような時代の要請、「できるだけおどろおどろしく、そして乳房も加えて」といった要望に屈していたように見える。
これもわたしの思い違いかもしれないが、わたしの記憶では1980年代はSFの表紙画にとって悪い時代だったように思う。エアブラシで描かれた乳房が隆盛を極めた時代だ。そういった趣味が廃れてきたのはようやく最近のことである。当時はSFの表紙画のせいで、SFファン以外の人にSFを読ませるのは至難の業だった。女友だちにクリスマスプレゼントとして『異星の客』――表紙はカール・ランドグレンだった――を買ったときのことを覚えている。わたしは、頼むから表紙は無視してくれ、と言ったものだ(やはりランドグレンの表紙だった『愛に時間を』を人にあげたときもわたしは同じことを言った)。
どちらの表紙も問題は裸ではなく(内容を考えると皮肉だが)、全体的に漂う悪趣味な感じと、本の内容とかけ離れていることだった。『異星の客』の最高の表紙はいまでもオリジナル版(たぶん)だ。ハインラインが主人公のメタファに使ったロダンの彫刻が知的に配されている(『愛に時間を』のオリジナル版の表紙は水着姿のラザラス・ロングの体から女たちが生えている絵で、こちらはそれほどよくない)。
パワーズのSF表紙画の大半には80年代のエアブラシの胸のようなものはほとんどなく、それはいいことだと思う。パワーズはシュールレアリスム風のあり得ない形の建物や生物を描いた。彼の表紙は、見る者に本の内容を想像させるが、特定のシーンが描かれているわけではない。彼の表紙画は古臭い――パワーズの表紙画を見れば誰でも過ぎ去った時代のSFイラストレーションだと思わずにはいられない――が、彼の時代はまさにSFイラストレーションのよき時代だった。
1980年代にSFファン以外の人にSFを読んでもらおうとした経験があるからかもしれないが、わたしはSFの表紙画を見るとき、「普通の人はこの本を読んでいるところを見られて恥ずかしくならないか」と必ず考える。いや、カール・ランドグレンを侮辱するつもりはまったくない(ランドグレンの他の作品、とりわけ一連のロックポスターはとてもクールだ)。ただ、ランドグレンの表紙画、それも80年代のSF小説の表紙画の多くは、特定の読者層に訴えることだけを意図しているように見える。その読者層とは、実際にそれをどう扱えばいいのかも知らずに女の胸というだけでただ舞い上がってしまうようなティーンエイジャーの少年たちだ。わたしだって1980年代にはそういう少年の一人だったのだから、それもわかる。そういう表紙には魅かれた。だが、その結果、それ以外の読者を引き寄せる機会は大きく失われたと思うし、そういう表紙画がSFに与えたイメージと表紙画の方向性のせいで(もちろんそれ以外にも多くの要因はあるが)SFはいまも損をしているといえるだろう。
これに対し、パワーズの表紙画はそれ以外の読者層にももっと開かれているように見える。ピカシオを初めとするいまの世代の表紙画アーティストにもそういう作品が増えている。たとえば、ピカシオの場合、彼の表紙画には80年代のSF表紙画の女性たちと同じくらい裸体の人物も多く描かれているが、それはより洗練された裸体であり、「あっ、乳首だ!」といった反応以上のものを喚起しようとしている(そこでは裸体もいわば平等で、女性と同じくらいの頻度で男性の裸体も描かれている意義も大きいと思う)。
ピカシオの作品およびいまの世代の多くのSFイラストレーターの作品は、パワーズの作品の直系とは思えない。少なくとも技法は異なっている。替わりに、対象となる小説作品の精神を喚起させようとする姿勢――その姿勢にわたしは拍手を送りたい――は感じられるだろう。彼らはクライマックスシーンのありふれたイラストや女性登場人物が裸になる場面を描こうとはしていない。
当然ながら、表紙画は商業目的を果たさねばならず、売れる本にすることが求められる。だが、売れる本にする手段もさまざまだ。女性の胸を見せる方法もあれば、頭を使う方法もある。パワーズの作品は後者だったとわたしは思う。そして、その姿勢がいまの世代のSF表紙画イラストレーターたちに浸透していることを喜ばしく思う。
Patrick | June 27, 2007 04:34 PM
As I always say --
ルーカスの輝きは物語を告げない世界の、作成にあり、実際に、催し物はその世界へ脱出である。彼が物凄い事は彼の大きい失敗の科学に宗教でき事を変えたmiticlorians だった。